ガサツな感性の人はウシジマくんの派手なコマだけを見て、暴力漫画と決めつけます。
実際は繊細な感性によって描かれており、普通の人が切り捨てる、ダメ人間たちが抱える問題の本質を教えてくれる人文学です。
「あら、可哀そう」という満たされた者のお恵みの視点ではなく、底辺の弱者の視点を読者に教えてくれます。
漫画闇金ウシジマくんでは、食事代わりにポテトチップスを与える描写が2回あります。
これが何を意味するのか?
漫画闇金ウシジマくんでのポテトチップスの意味
ヤミ金くん編より(18~20巻)
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風俗に身売りしている娘と、寝転んで電話をしているお父さん。
いつもすぐに仕事を辞めてしまう。

真鍋昌平著「闇金ウシジマくん18巻」小学館
「パパ ハラ減った。」
「ほれ。」
小学生の息子に食事をせがまれと、ポテトチップスの袋を放り投げる。
封も切らずに、散らかった部屋の床の上にあったポテトチップスを、食事として子供に投げ与えるお父さん。
公園の猫にカリカリのエサを与える時、適当に地面にばら撒くのと同じような事を家の中で子供にしている。

真鍋昌平著「闇金ウシジマくん18巻」小学館
お父さんがゴロゴロとしている後ろで、子供はポテトチップスを食べ続けている。
お父さんは子供の事は全く見ていない。
自称社会問題家は
大家族で失業中のお父さんと、栄養不足の可哀そうな子供
という単純なアイコンだけしか見ず、雇用対策が肝要というトンチンカンな答えを出す。
問題の本質である、お父さんの人格の無責任さに焦点を当てなければ解決しない。
そこに焦点を当てると、ポテトチップスから見えてくるものがある。
家は散らかり、楽なスウェットでゴロ寝している事から、お父さんの意志薄弱の度合いがわかる。
こういうお父さんだから、袋に入っていて調理不要のポテトチップスを食事として子供に出してしまう。
外見・発言の全てに、意志と責任感を持たない人格の特徴が出ている。
良心が傷ついても、お父さんの精神がクズで不幸な子供の量産機になっている事を指摘しなければならない。
このまま職を用意してあげても、人格が補正できていないので同じ失敗を繰り返す。
ポテトチップスの描写は他にもある
トレンディーくん編より(20~21巻)
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自宅のアパートで客(鈴木斗馬)をとる母親に、お腹を空かした子供たちが食事をねだる。

真鍋昌平著「闇金ウシジマくん20巻」小学館
「お前らいつもの食ってろ」
”いつも”ポテトチップスなのだ。
それに言葉遣いも、母親が子供に『お前ら』なのだ。
言葉使いの関係性が親子ではなく、合宿所の集団生活みたいなのは、親のレベルが子供と同じだからだ。
鈴木斗馬の視点で、キッチンの床でポテトチップスを食べる子供の姿を読者に見せる。

真鍋昌平著「闇金ウシジマくん20巻」小学館
(あれが夕(ゆう)メシ!?
虹奈(娘)と同じ年くらいか?)
著者が繊細で弱者に同情的でないと、このような描写は出来ない。
その証拠に、鈴木斗馬が子供たちに同情してピザをとってあげている。
ポテトチップスを与えるのが悪い事だという、単純な話ではない。
ポテトチップスを食事として与える行動は、いかに崩れた生活が根底にあるのかを教えてくれている。
生活力のない母親は、当然ながら部屋を掃除できず、生活臭にあふれて散らかっている。
飼育放棄されたハムスターのカゴのように、人が住める環境ではない。
誰にでも平等に自由が与えられるのが、果たして良いことなのだろうか?
自由が与えられると、必ず破綻する選択肢を選んでしまう人がいる。
未熟な人の自由を尊重する事は、無免許の子供に高速道路を走らせるようなものだ。
その未熟さを表すのが、ポテトチップスの描写だ。
ウシジマくんを読む人は貧乏人の目線に最も近くなり、逃げたくなるほどの閉塞感や痛みを共有する。
読後の解放感で、自分の世界の安心感を実感できる。
ダメな人たちが抱える問題を、最も理解しているのがウシジマくんの読者だ。